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私達の運命を決めるのは、他の誰でもなく、きっと私達自身でしょう | 織総 択


 亜衣子さんが白いカップをその清らかな指で持ち、口へと持っていかれた。綺麗な唇に縁を当て、紅い液体を少し口に含まれると、カップを口から離し、静かに飲み込まれる。私の視線は、液体に濡れ、店内の薄い光を反射している彼女の下唇に注がれていた。艶かしい。薄紅色の唇は、私が知っている何よりも綺麗で、そして気高い。彼女に憧れている人は、同性異性を問わず、私を含めて多数いたようでした。
「それで、話したいことなんだけど……」
 私の瞳をまっすぐに見つめ、両の手を足の上でお組みになって、口を開かれた。私は同性でありながら、口づけたく思う心を内に秘め、亜衣子さんと同じようにテーブルから手を下ろしました。亜衣子さんは少し照れるように微笑まれ、目をふせられた。
「あの、私、先日、男の人に交際を申し込まれて、…それで、どうしたらいいのか、初めてのことだし、…どうしたらいいのか…教えてほしくて…」
 恥らう亜衣子さんの姿は、すごく自然で、ごまかしが感じられない。私は、感情を素直に表現できない人間として、このような姿に惹かれ、羨ましく思うこともありました。でも亜衣子さんは、活発に異性とも話のできる私が羨ましいと言われたことがあります。私達は、互いに足りないところを求めていたのかも知れません。
「そうね…その人と一度でも会ったことはあるの?」
「いいえ、まだ一度も…あなたに教えてもらってからと思って…」
 亜衣子さんは、再び私の瞳を見て言われた。その間に、三度、目をふせられた。私などには、彼女の様子を見ているだけで新鮮でした。
「それじゃ、明日にでも会ってみて、どんなな人か知らないと。後はそれからよ」
 亜衣子さんは少し考えるようなそぶりを見せられ、困ったような表情をされていました。
「…一人で?」
「もちろんよ。私が一緒に行ってもどうにもならないし」
「心細いわ…」
 亜衣子さんが淋しそうにしておられる。彼女のこのような様子を見ると、どうにかしてあげたくなってしまう。
「私は後ろでみているだけよ、いい?」
 私があきれたように言うと、亜衣子さんは嬉しそうに微笑み、大きく頷かれた。
「それで、その人の名前は、何?」
「山口尚宏…さん」
 亜衣子さんが頬を赤らめられている。こういったかわいらしさの中にも上品さが見られることに、私は嬉しくなりました。
「あっ、どこで会ったらいいのかしら?」
 私の目を覗き込まれる亜衣子さんの瞳は真剣そのものでした。
「そうね、実際どこでもいいんだけど、放課後の教室っていうのがいいかもね」
「教室…どうやって伝えたら…」
「私が伝えてあげるわ。放課後、山口さんの教室ね。それでいい?」
「ええ、ありがとう。お願いね」
 彼女は本当に嬉しそうに微笑まれた。
私には彼女の願いを断れるはずがないのです。彼女は、私にとってカリスマなのですから。
「あれ、村上さんじゃないか、奇遇だね。こちらお友達?」
 会計を済ませ、店を出ようとしていた男の人が、亜衣子さんに気付いて声をかけてきました。人のよさそうな表情で笑い、私のことを亜衣子さんに尋ねられました。
「ええ、あっ、こちら高岡伸也さん。小学校からの知り合いなの。家が近くて」
亜衣子さんがこんなふうに紹介するときは、かなり仲のよい方でした。
「…はあ、池上真琴といいます」
 亜衣子さんのお友達なのですから、悪い人ではないという確信だけはありました。
「うん、綺麗な人だね。じゃあ俺、約束があるから、また今度ということで」
「ええ、さようなら」
 亜衣子さんは軽く会釈をし、私のほうに向き直られた。私は高岡さんを見て、亜衣子さんに声をかけました。
「なんだかよさそうな人ね」
 亜衣子さんは少し驚かれたような顔をして、微笑まれた。
「ええ、いい人よ。どうしたの、嬉しそうに見えるわ」
「えっ? 何? いいのよ、私のことは。今日はあなたのことできたんだから」
 この後、私達は他愛もないお喋りをしばらく続け、亜衣子さんの、明日はお願いね、という言葉でお別れをしました。彼女はこの間中、微笑を絶やされませんでした。

 私は受話器に手をかけた。三回目のコールが鳴り終わるのと同時に持ち上げ、耳へともっていく。そして、いつものように声色を変えて応答しました。
「はい、池上です。どちらさまでしょうか?」
「あ、あの、高岡と申しますが、まことさん…いらっしゃいますでしょうか…」
 少し上ずった男の人の声は、私の名を告げると、ため息をついているようでした。
「あっ、私ですが…あの、失礼ですが、どちらさまでしょうか…」
 私は電話の向こうにいる男の人に不信感を抱きながら、もう一度聞きました。
「あっ、僕です。昼に喫茶店であった、高岡です。あの、村上さんの友達の…思い出していただけませんか?」
 最後まで聞く前に、私は思い出していました。しかし、その日に会った人を忘れてしまっている事のほうが普通でないことを思い、止めにくく思ったのです。
「あの…思い出しました。すいません、よく聞き取れなかったものですから。それで、ご用件は…」
 頬が赤くなるのを感じ、受話器のコードを指に巻きました。
「あの、電話じゃ言いにくいので、明日にでも…会ってもらえませんか、あの、どうでしょう? 会ってもらえませんか」
 高岡さんは震える声でそのように告げると、私の答えを待つように、沈黙されました。
 私は首を伸ばし、居間に飾ってある時計を見て、まだ二十一時に達していないことを確認しました。
「そちらがよければ、今からでもいいですけど。九時までなら外出できますから」
「えっ、でも、どこに住んでいらっしゃるのか、知らないですし…」
「高岡さんのお家、亜衣子さんの家の近くですよね」
 高岡さんが、ええ、と答えるのを聞いて、近くの公園で会うことに決めました。
 私の家から公園まで、急いで行けば五分とかからない。途中で真っ暗になってしまうこともないので、一人で出歩くことも多くありました。
 公園についたとき、高岡さんは既に来ていらっしゃいました。ぶらんこに座って、下を向いておられたのですが、私の足音が聞こえたのか、顔をあげられ、立ち上がられました。
 私は高岡さんのほうに歩いて行き、隣のぶらんこに座りました。高岡さんも再び腰をおろされ、私の顔をじっと見つめられて、あの、とつぶやかれた。
「あの…僕とお付き合いしてもらえませんか。初対面というか、二度目なんですけど、まだお互いを知らずにと、思われるかもしれませんが、俺、本気なんです」
 言い終わって、高岡さんは腰をあげられ、「返事はいつでもいいですから」ぶらんこを手で揺らめかしながら、私の顔をちらりと見て言われた。
 しばらく沈黙が続き、ぶらんこが揺れ軋む音だけが響き渡る。風が強くなり、寒さが増してきた。私がそう感じたように、高岡さんにとっても全てが痛く感じられたに違いありません。
「あー、お近くに、住んでいらっしゃるんですね。もう少し待たなくてはいけないと思っていたら、意外と、早かったものですから。ああ、俺何言ってるんだろう」
 緊張感に流されて、私は少し笑いました。ただ、高岡さんがそれに気付かれた様子はありませんでした。
「あの、交際の件、私のほうこそ、よろしくお願いします」
えっ、いいってことかな? 高岡さんは少し間を置いてつぶやくように言われました。私は彼を見ずに頷き、頬を赤らめました。少し離れたところに電灯があるだけの暗がりの中で、無限に感じられる時を、私は憎く、また、いとおしく思いました。

「ああ、どうしたらいいのかしら。どきどきしてきたわ。ねえ、初めになんて言ったらいいのかしら」
 私がとても忙しかった日の放課後、亜衣子さんはいつもと違って緊張していらっしゃるようでした。今日一日ずっとそわそわして、おそらく昨晩もあまり眠れなかったのではないでしょうか。
「こんにちはじゃないの」
「そうね、そうよね。何言ってるのかしら、私」
 冗談ではなく、それほど緊張していらっしゃるのです。私が高岡さんのお話をしても、亜衣子さんが私の家の電話番号を教えられたということはご自分から言われたのですが、他のことはあまり気にしていらっしゃる様子もなく、ただ、そうね、と言われるだけでした。
「ほら、しっかりして、山口さん…だっけ? もう待ってるよ」
 そうね、つぶやいて亜衣子さんは歩を速めた。手は握りこぶしをつくり、一所懸命に歩こうとしているようでした。こういうところが亜衣子さんの魅力なのです。
「ああ駄目、やっぱり怖いわ」
 亜衣子さんは立ち止まり、私のほうに向き直られた。私は亜衣子さんの手を取り、行くの、と言って引っ張り、無理やり約束の場所へと連れていきました。中をのぞくと、山口さんはこちらに背を向けて、一人、座っていました。亜衣子さんが意を決したように扉を開けて、一歩だけ中に入られる。私は外で待つことに決めました。山口さんが立ち上がられたのか、いすと机がぶつかる音がしました。このときから、私は中の話を聞いていません。後から亜衣子さんに、お受けすることにしたわ、と言われたときは、何となく祝福できなかったことを覚えています。


 私達は、それぞれの恋を楽しみました。しかし、二ヶ月が過ぎたころ、亜衣子さんのお顔から笑みが消えたのです。この事実に気付いたのは、私と高岡さんと、そして、亜衣子さん自身、だけだったかも知れません。でも、亜衣子さんはいつでも、幸せだと言われました。

 三ヶ月が過ぎようとしていました。私と高岡さんが深い仲になったのも、高岡さんが、一緒に死のうか、と言ったのも、この頃でした。私との交際に、ご両親の強い反対があったと言うのです。理由は存じません。親というものにあまり負い目を感じていない私にとっては、たいした問題には思えず、高岡さんにもお聞きしなかったからです。高岡さんは笑って、冗談だよ、と言われましたが、深刻に思っていらっしゃることは間違いないようでした。
 私にとって、幸せな日々が過ぎていました。ただ、中身のない幸せと言うのでしょうか、亜衣子さんのことを忘れて、はしゃぎ、人の痛みを忘れていく。そんな日々を送っていたのです。

 ある日、もう少しで四ヶ月が過ぎようとしていました。
 朝から激しく雨が降り、全てが鬱陶しく、憂鬱で、何をする気も起こらず、私はずっと家にいました。午後五時を既にまわっており、曇っていることも助けて、辺りが暗くなってきていた頃です。玄関のチャイムが鳴り、来訪者の存在を告げました。私は家族以外の人と会えることを嬉しく思いながら、玄関に急いでいき、かぎを開け、戸を開いて、そして、茫然としました。そこには雨でずぶ濡れになった亜衣子さんが立っていたのです。私は慌てて入るように言って、タオルを持ってきました。亜衣子さんはそれで顔を拭かれて、初めて口を開かれた。
「お時間…少しいいかしら。あなたに聞いてもらいたいことがあるの…」
 無表情に言われ、私は態度には出さなかったのですが驚きました。目が曇っていて微笑みのかけらすら見えなかったのです。
「上がって。あっ、上だけでもいいから服はそこで脱いで、廊下濡らすといけないから。今誰もいないから恥ずかしがらずに…」
 私が振り向くと、亜衣子さんは既に服を脱がれていました。私は服を受け取り、洗濯機の上において玄関に戻ると、茫然と立ち尽くしている亜衣子さんの手を引っ張り、自分の部屋へと連れて行きました。
 亜衣子さんに濡れたスカートを脱いでもらい、代わりに私のブラックジーンズとトレーナーを渡し、よく見ると下着も濡れているようでしたので、その代わりも渡しました。
「私、外に出てるから、それに着替えて。サイズが合わないかもしれないけど」
 私が言い終わったとき、亜衣子さんは既に下着をお脱ぎになっていました。私が部屋を出る必要もなく着替え終わり、座っていいかしら? ベッドを指差して言われると、私が首を縦に振って応えるのを見て座られた。私もその横に座り、何もおっしゃられない亜衣子さんの横顔をしばらく見つめ、彼女がご自分から口を開かれるのを待ちました。
 どのくらい時が過ぎたのでしょうか。とても永く感じはしましたが、五分くらいだったかも知れません。私が我慢を切らし、レコードをかけに行ったときでした。
「私ね…妊娠しているの」
 私はしばらくその意味が分からず、茫然としました。その言葉を二度目に聞いたとき、混乱している私に気付き、平静を取り戻そうと、もっていたレコードをかけ、二度深呼吸をし、いすに座りました。
「妊娠って…じゃあ、どうするの? 産むの?」
 亜衣子さんは小さく頷き、唇の端のほうを歪ませるようにして笑うと、ご自分の腹部に手を当てて、呟くように言われました。
「産むわ。産んで尚宏って名前を付けるわ。そして、私が受けた、いえ、それ以上の苦しみを感じさせるの。ねえ、素敵な考えだと思わない? あの人の罪をね、この子が償うのよ。ね、素敵でしょう」
 私は心臓が激しくなるのを抑えながら、目の前にいる女が誰なのか考えました。亜衣子さんの顔をした、この醜い、歪んだ笑いをする女が誰なのか分からなくなっていたのです。汗が頬を伝いました。
「最初から…全部話してよ。全然訳が分からないわ。…それに、あなた誰なの?」
 私の部屋のドアが音を立ててから、どのくらいの時が過ぎていたのでしょうか。私の耳には『WINTER WALTZ』が入り込んでいたような気がします。
「私は、亜衣子よ。分かるでしょう?」
 手のひらの汗を意識し、私は髪をかきあげました。恐怖だったのでしょうか。右手の震えが止まりませんでした。
「…分からないわ、何があなたをそんなにしてしまったの」
 声も震えていたと思います。
「私、氷砂糖のようなものをもらったわ。あの人はクリスタルって呼んでた。キラキラしてるから。それをね、溶かして塗るの、すごくいいのよ。あの人はね、いつもは飲んでるんだけど、あのときは飲まないの、理由は聞かなかった、もう頭トんでたから、何がなんだか分からなかったから」
 何となく分かったような気がしました。私でもクリスタルくらい知っています。私が知っている人の中では、スピードと呼ばれていました。
「でね、壊したの、あっけなかったわ、ここのところから噴水みたいに、でもね、赤いの、サクって感じで、軟らかいし、お前が五人目だって、今でも感覚が残っているわ、お前の中にいるって、他にも付き合っている女の人がいたのよ、その人が言うの、あんたは俺の何だって、私は言い返したの、アシドはもっといいらしいぜ、私のおなかに子供がいるって、誰かが私のおなかを蹴ったのよ、男の人が三人いて、何だったかしら、そう、おれとおまえとおいっていったわ、何かが二十四回光って、切ったの、うるさくて、熱かったのかな? うん、多分熱かったわ、このくらいのトカゲがね、おれがサイコリザードって呼んでた、俺の子供じゃないって、私の腕に針が刺さってた、硬くて撓う棒のようなもので顔を叩かれて、それもサイコリザードだわ、頭がスッとしてきた、私サイコリザードを食べたの赤い汁が手について汚かったけど、おなかが痛くなって、血を流していたわ、赤い服を着ているみたいで奇麗だったの、この子に尚宏ってつけるのよ、おなかを蹴られて一度は生まれたけど、まだ人間じゃなかったから戻したわ、少し喉に詰まったけど、素敵でしょう、四匹のサイコリザードを食べたわ、この子に栄養がいると思って、目が魚みたいだった、あれ? 魚だったのかな、いえ違うわ、深海魚よ、おまえは深海魚なの、白い毒を出したわ、おれがサイコリザードを捕まえた私に飲めって言ったの、あの人が私の中にいるのよ、同じ顔をした子が産まれるわ、この子にもサイコリザードを育てさせるの、ぶよぶよしてあまりおいしくないけど、すぐ壊れてしまうし、女の人があの人のサイコリザードで遊んでた、深海魚がおいに言っていたわ、押さえておけって、私はあの人に言ったのよ、右手が一番赤くて奇麗だったわ、女の人が知っていたの、この世で最も奇麗なものを、私ね、五つ壊したの、赤いオイルにまみれて壊れたわ、みんな嘘だったの、お前には関係ないって……………………」
 私はほとんど聞いていませんでした。しかし、全てが理解できたような気がして、そこにいる女の人が亜衣子さんだと確認できて、嫌なことだけを考えている自分に気付いて、悲しく思いました。『マスカレード』が終わり、『Good-bye Friend』に変わるのだけを耳に残して、机の上にある鉛筆立ての中からカッターを取り、亜衣子さんの歪んだ笑いを消すために、長く出した刃で、ずっと昔に麗しく見えていたその首筋を裂きました。そのときに見せた、亜衣子さんの悲しげで優しい微笑みを、私は、一生忘れはしないでしょう。
 亜衣子さんは、やはり奇麗でした。

高岡さんに電話をかけ、いつかの公園で会う約束をしました。亜衣子さんをベッドにきちんと寝かせて、私は自分の部屋を出ました。顔や体にかかった血を落とすために、服を脱いでシャワーを浴び、そのとき初めて亜衣子さんを意識して涙を零しました。先程まで着ていた服の代わりに、亜衣子さんが着ていた服を身につけ、カッターを胸元に入れて、亜衣子さんと同じように、激しく降る雨の中を傘もささずに家を出ました。
 何時になっていたのでしょうか。もう辺りは真っ暗で、人影もほとんどなく、私という存在が全ての中で最も愚かしいものに思えました。すれ違う人々の声が聞こえるたびに、それを意識して泣きそうになり、両手で顔を覆って歩き続けました。
 家を出てから八分二十三秒後に、公園の入り口に着き、中に入ると、いつかのぶらんこのところに高岡さんは立って待っていらっしゃいました。傘をささずに歩いてきている私に気付き、小走りで駆け寄られると、ポケットからハンカチを出して私の顔を優しく拭いてくださいました。
「どうしたの? びしょ濡れで。このままじゃ風邪ひくよ、俺の家においでよ、暖まったほうがいいし」
 驚きながら言う高岡さんに、私は下を向いたまま首を横に振って応え、亜衣子さんのことを話そうと思い上を向きましたが、話すのはやめました。
「ねえ、死のうよ、一緒に死のう。ずっと前にそう言ってたじゃない、ねえ、嘘じゃなかったら一緒に死んでよ」
 私は嘆願するように、じっと彼の目を見て言いました。彼は驚きと共に、混乱と恐怖を感じていたようです。視線が定まらず、私の肩の上に置いていた手を下ろし、ちょっと待って、震える声で言われました。
「どうしたの、何かあったの? 最初から説明してくれないと判断のしようがないよ」
 私には、自分の軽率な発言のごまかしにしか聞こえませんでした。
「私…亜衣子さんを殺したわ、この手で、カッターをもって。そうしたほうがよかったの、絶対に、そうしたほうが…。亜衣子さんが、亜衣子さんじゃなかったのよ、今日、私の家に来たときは、でも、最後に亜衣子さんに戻ったわ、私見たもの、私に優しく微笑んでくれたのを。この服はね、亜衣子さんの形見なの、今日着ていた服なの、亜衣子さんは私の服を着ているわ、下着まで。素敵でしょう、私は亜衣子さんになったの、でも私は私よ。なんて言うのかなあ、私は私なんだけど私は亜衣子さんなの、同一体になったのよ。私の中に亜衣子さんがいるの、素敵だと思わない。亜衣子さんはね、妊娠していたらしいの、スピードをやっていたらしいわ。五つ壊したって言うの、サイコリザードを食べたって。私は亜衣子さんと一緒になったんだから亜衣子さんの全ての罪を償いたいの、罰を受けたいのよ。でもあなたとは離れたくない。ねえ、一緒に死のう、このカッターでここのところを切ればすぐだわ」
 私は胸元からカッターを取り出し、刃を出さずに自分の首をなぞりました。高岡さんは怯えた目で私を見つめ、傘を持つ手を変えようとして、そのまま下に落とされました。心臓が爆発しそうなほど鳴っていたに違いありません。目が充血して、唇が震えていました。
 嘘、私がつぶやくと、高岡さんは安堵のため息をつかれ、そうだよね、と言われ、屈んで傘を拾われた。
「本当に怖かったよ、今の。で、本当はどうしたの? まさか、これだけじゃないだろうね」
 高岡さんにとって、私の存在は何だったのでしょうか。そして、私にとっての高岡さんとは何だったのでしょう。私にとっての亜衣子さんは、亜衣子さんにとっての彼は、亜衣子さんにとってのサイコリザードは、サイコリザードにとってのスピードは。
 私は高岡さんの首に抱きつき、口づけをしました。高岡さんは私の腰を抱き、首を少し傾げるようになさいます。いつもと同じ格好で四秒が過ぎ、私はカッターの刃を最大限出して緑色に透けて見えている首筋の血管を切断しました。高岡さんの表情が歪み、私の腰にまわしていた右手を違和感があるだろうと思われる首にもっていかれました。手にぬめる体液がついても、それが何だか分からないようでした。恐らく、今、自分にどういうことが起こっているのか、それさえも分かっていらっしゃらなかったでしょう。全ては勝手な詮索でしかありませんが、高岡さんの力ない瞳がそう物語っていたように思います。
 私は、つい先程まで高岡さんだった肉の塊を引きずって、あの夜に高岡さんが座っていらっしゃったぶらんこに座らせた。私はそれをしばらく見つめていました。五分、十分、いえ、もっと永かったかも知れません。私は隣のぶらんこに座り、あの夜のことを思い出そうとしましたが、忘れているのが怖かったのでやめました。雨は相変わらず降り続き、赤に染まった高岡さんの全てを洗い流していました。本当にどれくらいの時が流れていたのでしょう。私はぶらんこを大きくこぎました。悲しかったのでしょうか。雨でよく分かりませんでしたが、涙を流しているような気がしました。私の中には罪人である亜衣子さんがいます。そして、私自身、既に罪人です。何の祈りを込めたらよいのか分かりませんでしたが、恐らく、全ての祈りを込めて、私は自分の首を裂きました。
 これが、私の運命なのです。私自身が決めた、誰にも左右されない、未来なのです。
 痛みと共に遠ざかってゆく意識の中で、亜衣子さんの最後の優しい微笑みに抱かれて赤に染まってゆく自分を想像し、少し微笑んでみました。
 雨の音が聞こえています。

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