幸福 | 富永 天照
最近、私の妻が老いている。
私が妻を一生の伴侶として二十数年、来年は銀婚式だった。今、妻は縁側から庭に咲いている椿を見ている。その顔には昔と変わらない微笑が浮かんでいるが、その二つの目は本当に椿を見ているのだろうか。
「あら、彩乃ちゃん上手ねぇ。」
妻がそう言って庭を覗き込んだ。しかし、庭には誰もいない。ただ、椿が咲いているだけである。けれど、妻の目には何か映っているらしかった。
娘が嫁いで何年になるのだろうか。私達の夫婦には子供は一人しかいなかった。その娘、彩乃がこの家を去るとき私は泣いたが、妻は本当に嬉しそうだった。娘はこの家を出たが、新居はすぐ近くの団地だった。私達の面倒が見易いようにとのことだが、私に言わせれば一緒に住んでくれれば、それが一番いい。
しかし、娘も度々この家にやって来たり、また私達を娘の家に招いてくれたりと楽しい日々を過ごしていた。しかし、最近は全く娘の家に行くようなことはなかった。妻はまだ庭に向かって話しかけている。
昔、私の妻は美人だった。ひょっとしたらそう思っているのは自分だけかもしれないが、私の妻は美人だった。その証拠に娘の彩乃も美人である。
私の妻は良く気が利き、料理は上手く、いつも朗らかだった。私の友人達は、
「いい人みつけたなあ。」
と言って羨ましがる。私は嬉しかった。私は妻を大事にしてきたつもりだった。娘が生まれてからは、妻と娘は私の誇りだった。
先日、彩乃が夕食を作りにきてくれた。三人でおいしく戴き、娘は帰って行った。私は風呂に入った。風呂から上がると妻が台所に立っていた。娘は後片付けまでして帰ったので、私が妻に何をしているのかを尋ねたところ、返事はこうだった。
「あら、おなかがすきました、もう少しで出来ますからね。」
妻は振り向かずに言った。夕食を作っていた。私は何も言えなかった。
「還暦」という言葉がある。満六十歳になると暦がひとまわりするのでめでたいと言う。その時は、『赤いちゃんちゃんこ』を着るのが習わしだった。この『赤いちゃんちゃんこ』には『赤子』の意味がある。つまり、暦がひとまわりしてまた『赤子』から始まるのだ。
先日、二人で買い物に出ると、妻がベビー服を買っていた。孫にやるのかと思い聞いてみると、
「彩乃ちゃんはもうすぐ一歳ですよ。」
そう言って楽しそうに笑った。私はまた何も言えなかった。言いたいことはあったのだが。
そして昨日、ついに私の心を決めることが起こった。いつものように娘が訪ねてきた。この家のチャイムが鳴り、妻が迎えに出た。娘が来るのが分かっていたので、私は居間で待っていたのだがなかなか入って来ない。娘の声が聞こえるので何を話しているのだろうかと思いながら私も玄関の方へ向かうと、娘が懇願するような声で私を呼んだ。私はいやな予感がした。そして、その予感は当たっていた。
「お父さん、お母さんが、お母さんが…」
その声は泣いていた。私の妻は、
「貴方など知りませんよ、勝手に上がらないで下さい」
真顔で言っていた。私が何か言おうとした時、妻は私に気付き、私の顔を見て言った。
「まあ、いつの間に、出ていってください。一体貴方誰なんですか。全く失礼な。」
そして、私の妻は私の袖を引っ張った。『出ていけ』ということらしい。娘が泣き崩れた。
私は何も言えず、娘の肩を抱いてこの家を出た。私の家を……
とりあえず娘の家へ行き、しばらくして家に戻った。私の妻は、
「あら、どこへ行ってらしたんですか、何も言わないで。」
先程のことは何も覚えていないようだった。しかし、「一体貴方誰なんですか」と言ったその言葉は私の耳、心、体ははっきりと覚えていた。
私は泣いた。
そして今、私は私の妻を連れて娘の住む団地の屋上にいる。娘達の部屋は一階だが、娘に会いに来た訳ではない。私の妻は何も言わずここまで付いてきた。その顔には微笑が浮かんでいる。
ここからは私達の家が見えた。娘が通った中学校も見える。妻が私の手を握った。
「久し振りね、洋介さん」
やはり、その顔は笑っていた。
私は悲しくて泣いた。私の名前は洋介ではない。しかし、私はそのことについては何も言わなかった。ただ一言、
「ああ、久し振りだね……」
もっと言いたいことはあったのだが涙で何も言えなかった。私は私の妻を抱き寄せた。私達は跳んだ。落ちて行くのが分かる。しかし、落ちてしまった後、私達はまた昇るのだ。神様でも仏様でもいい、私と私の妻とで楽しく暮らせるところへ行きたい。何事もなく過ぎる毎日。それが一番幸福なのだ。私は幸福が欲しかった。私の手は妻の手を握っている。
急に目の前が真っ暗になった。
最近、私の妻が老いている。しかし、それはもう過ぎたことだ。娘が泣いていた。