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害虫 | 天羽 均

 人間の死というのもは、本当に突然やって来るものだ。私は今、それを悟った。どんなに偉い人間だろうが、関係ないのだ。人はたまに、『日頃の行いが良いから』と口にするが、そんなものは。たまたま運の良かった奴らのくだらない謙遜に過ぎない。
 私はこれまで、人より優れていると言われ続けてきた。幼稚園に行く頃には、もう掛け算や割り算ができていたし、小学校に入学した時には、方程式すら解けていた。父が興味本位で教えていた(父は中学校の数学教師だった)ということもあるが、天才なのだ、私は。知能指数が二百三十もあったほどだ。勉強も好きだったし、何より、『知る』ということが楽しかった。何やらあれこれと想像し、それを作ろうと考えることも好きだった。
 私の脳は拒むことを知らず、人より優れているということは意識しなかったが、他人が知らないことを知るという行為に喜びを感じていた。理由はもう分かっている。私の脳は敏感すぎて、脳を働かせ、刺激を与えるたびに、脳内麻薬(痛みなどを鎮めたり、快感を与えたりする為に、脳下垂体で作られる麻薬作用のある物質のこと。エンケファリンやベータ・エンドルフィンなどがある)を作り出していたのだ。これによる依存はないにしろ、私は少し怖く思った。この事実は、私の脳が異常だと言っているようなものだったからだ。私の脳が、いつ正常に動かなくなってもおかしくないのだ。しかし、これとは逆に、楽しく思ったことも否めない。研究したいと思うものが、見つかったのだから。

 中学・高校と、私はずっと首席だった。あの程度の知識なら、特別に勉強しなくても理解することができる。私は空いた時間を、全て読書に使った。それは小説や詩集であったり、漫画であったりもした。同時に、色々な音楽も聴いた。クラシック、ロック、パンク、ポップス、ジャズ、フュージョン、ソウル、歌詞がついていたり、インストゥルメンタルであったり。しかし、ただむやみに読んだり聴いていたりしていた訳ではない。人間の精神というものを理解しようとしていたのだ。有機物の塊である脳が生み出す精神を、全て覚え込もうとしていた。脳というものを研究する際に、どのようなときに、どのような状況で、どのような器官が働いて、どのような感情が生まれるのか分かっていれば、脳の細かい構造と働きが予想しやすいと思ったからだ。この六年間は、この為だけに費やした。
 私は大学の医学部に進学した。四年間は確実に単位を取る傍ら、医学関係の専門書を読みあさった。大学院に進むと、そのとき教授だった恩師(今はもう亡くなられている)と共に研究に入った。私にとっても、教授にとっても容易なものではなかったが、研究は十年続き、大成した。終わりの二年は、私と若い学生三人の四人で続け、論文の作成に入っていた。このころ、教授は亡くなられた。過労もあっての脳卒中だった。脳の研究をしている人間が何で脳卒中なんかで、と思ったが、教授も人間なんだと思い諦めた。
 この研究の間に、私は腰を痛めていた。正確に言うなら、論文を書いている間にである。私は持ち前の好奇心から、論文の結果も出る前に次の研究に移った。人間の体を力学的に解明しようというものである。しかし、何の基礎知識もない私は、大学の助教授として働きながら、力学の勉強を始めた。

 それから二年が経っていた。力学の知識も深まり、新しい研究にも移っていた。
 私は海が好きだった。生命起源である海、私はこれを見るたびに、進化というものを考え気分を一新させていた。
 今も大学の近くにある崖の上から、彼方まで広がる、橙色にきらめいている海を見ていた。今の研究が終われば、次は進化というものを解明しようと思っていた。しかし、その望みは、一介の甲虫によって断たれようとしているのだ。研究室に戻ろうと、振り向いた私の視界を、枝分かれした角状の物が阻んでいた。避けようとした私はバランスを崩し、崖の上から、所々岩の突出した海へと向かっていた。

 突然の出来事だ。私はこの甲虫によって殺されるのだ。自動車にでも、病気にでもなく、甲虫にだ。情けないとしか言い様がない。天才と言われたこの私の一生は、甲虫による落下事故で幕を閉じるのだ。日頃の行いなど関係ない。要は、運が良いか悪いかなのだ。冬の街で、新聞紙に包まった浮浪者が凍えながら生き延びようとも、私は岩場に頭を打ち付け、死んでいくのだ。
 甲虫は害虫だ。あんなものを有難がっている奴らの気が知れない。
 やはり甲虫は害虫だ。

笹岡 幸広 三十五歳  死去

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