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さよならを言うまえに | 織総 択

 おい、人殺しの子、こっち向けよ、何だよそのかおは? 文句あんのかよ? あれ? 犯罪者の子供って学校に来てよかったっけ?
 顔を醜く歪ませた中学生くらいの男が僕のほうを向いてばかにするような口調で言っている。次第に同じような笑っている顔が増え、僕の視界を埋めていく。一つ一つは認識できない。皆一様に、特徴というものが不思議なくらい見られなかった。その中に一人の女が怒った顔で立っているのに気が付いた。その顔だけがはっきりと認識できた。よく知っている顔だった。元気出せよ、あんたがやった訳じゃないんだから、人生楽しくいこうよ、楽しくさ、どうせさよならだけが人生なんだから、 周りの奴らが、笑い声を残して消えた。女の顔で視界が埋まる。苦しんでいるのはあんただけじゃないんだから、わたしを苦しめるのはあんただけどね。
 神経が一ヶ所に集中するのを感じた。
 無理矢理に目を開けた。心臓が狂ったように早鐘を打ち、全身に汗をかいている。寝間着がぐしょぐしょに濡れていて気持ち悪い。ボタンをもつれる指ではずし、布団の上に脱ぎ捨てた。左手の袖が引っかかったことに苛立った。まだ手首に感覚が残っている。その辺りを、まだ重たく感じる右手で摩った。ずっと消えないのではないかとさえ思えるほど気になって仕様がない。トランクスのゴムに指をかけ、中に風を送る。太腿の辺りが冷たくなり気持ちよかった。
 僕は大きく息を吸った。次第に意識がはっきりしてくる。全身、特に背中に力を入れ、伸びをする。
 時計を見ると八時二十五分だった。もう一度目を閉じる。二十分に鳴るようセットしておいたアマデウスの『ジュピター』が静かに流れているのに気が付いた。
 僕は夢を見ていたようだった。近頃ほとんど見ていなかった中学校の頃の夢である。何故、今更見たのかはよく分からない。ただ、あまり見たい夢ではなかった。嫌な光景を思い出してしまうからだ。夢に出てきた女も知っている奴だ。
 醜い男共が言っていた言葉が頭の中でこだましている。夢の大部分は覚えていないのだが、この言葉だけは最後まで頭に残っている。どんなに忘れようとしても忘れられず、どんなに消そうとしても消せない、人殺しの子、事実だった。
 僕が中学校に入ったばかりの頃、母が浮気をしていたことを、父が知った。
 夜中、尿意に目を覚ました僕は、二人が言い争っているのを聞いたことがあった。
 どこのどいつだ、お前の浮気相手は? 不特定多数か? 雌豚が、誰にでもケツをふってるんだろう? 確かに俺には子供を作ることはできないが、だからと言って他の男にそれを求めるのか? 俺のじゃなくても子供さえできればいいのか? 父がテーブルを叩き、矢継ぎ早に母を罵っていた。声が震えていたのを、父自身気付いていただろうか。
 違います、確かに昨日男の人と町で会いましたけど、久しぶりに会った高校のときの同級生で、懐かしかったから話が弾んだだけです、浮気だなんて、そんなこと、 母も負けじと言い返していた。しかし、僕は母が嘘を言っていることを知っていた。学校の帰りに、見知らぬ男と歩いているのを見かけたことがあったのだ。母はこのとき三十四歳だったが、歳よりも若く見え、奇麗だった。何の取り柄もなさそうな父と結婚したのが不思議なくらいだった。
 僕はしばらく聞いていたが、尿意には勝てず、便所に行き用を済ませた。その音を聞いたのか、僕が戻って来たときには、既に話をやめ、灯りも消されていた。
 次の日の朝、二人はいつもの何気ない会話を演じているようだった。僕は二十分そこにいたが、目を合わせるのを見ていない。その夜、父は自分を失うほど酒を飲んで帰ってきた。
 その二日後に、父が母を刺殺した。
 僕が学校から家に帰って来ると、洋間のドアのところで、包丁を持った父が母と何度か見たことのある男の前に茫然と立っていた。激しい嫌悪感とともに、僕は昼に食べた弁当を吐き出した。母が僕に作ってくれた最後の料理であった。父が僕のほうを見ている。母の目が虚ろに淀んでいるように見え、大きな魚の眼球を連想させた。左の脇腹が朱に染まり、白いブラウスを汚していた。口からも血がたれている。香水の匂いが脳を刺激し我慢できなかった。全てが醜く、ただ父が持っていた包丁だけが美しく見えた。
 あまり悲しくはなかった。母が僕を嫌い、避けていたことも知っていたし、母とはどこか食い違っていた。男と歩いているのを見かけたときも、別に何とも思わなかったし、たいして気にもならなかった。そう思う。
 ごめんなヒトシ、父さん、もう駄目だ、母さんを殺しちゃったよ、もう駄目だ、父さんどうしたらいいんだろう、ヒトシ知ってるか? 知ってたら教えてくれ、父さんよく分からないんだ、 僕は父の独り言をずっと聞いていた。包丁を握り締めたまま、父は洋間のソファーに深く腰掛け、体を預け、母の顔を覗き込み、涙を浮かべて呟き続けた。三十二分後、鼠色の背広のまま、父はパトカーで連れて行かれた。警察に通報したのは、第一発見者の僕だった。
 それから、僕にはひとつの忌まわしい肩書きがついた。
父方の親戚に引き取られ、学校に行き出したとき、初めにあの言葉を言ったのが夢に出てきた女だった。そのくせ、二日後には態度を変え、励ます側にまわっていた。ただ呆れるしかなかったが、嬉しく思ったことは否めない。
 この頃から、僕の生活は荒んでいったが、同時に勉強をしだしていた。見返してやろうと思った。僕を面白がって見ている奴らを、鼻で笑ってやろうと思っていた。それに、もう駄目だ、と言った父に今度会ったときに、荒みきっている姿を見せ付けて言ってやりたかった、もう駄目なのは僕のほうだ。父が苦しむことなら、何でもしたかった。
 そんな僕に味方するように、刑期を終えた父を待っていたのは、もう手術ではどうにもならないという癌宣告だった。
 ものすごいですね、始めは膵臓だけだったんでしょうが、肝臓・肺臓・胃・食道にまで転移しています、食道と肝臓は手術で治る可能性はありますが膵臓と肺臓はもう末期になっていますから可能性はゼロに近いですね、これまでも激しい痛みがあったと思うんですが、何故もっと早く見せに来なかったのか、もう手遅れですよ、これじゃあ、 医者が言っていた。
 夢を見た朝、もう死んでしまいたい、と父が言っていたのをふと思い出した。そのときの僕の応えが、死ねば、だったことも。
 父が入院してから、僕はまだ一度しか見舞いに行っていない。親戚連中に連れられて入院直後に一度行った、それだけだった。あのときも父は虚ろな目で、死にたい、そう言っていた。
 高校三年の夏のことだった。後一年もたないでしょう、 医者が言うのを聞いたときも、皆たいして驚きもしなかった。
 まあ、天罰だな、人二人も殺していれば、タカコさんも可哀想になあ、あ、そうそう、ヨシコさん調子はどうかね、おなかの子もこんなに大きくなって、予定日はもう分かっているんだろ? はい、九月の二十五日辺りだそうですけど、もうすぐだな、楽しみだろ? 初めての子だからなあ、 誰もが父のことなど忘れているようだった。僕は何故か孤独な気分だった。
 あんな夢を見た後だからであろうか、大学に行くようになったことを、知らせようという思いになっていた。結局僕は荒みきることができないで、受験勉強も一生懸命にやってしまっていた。第一、高校に入ってからは僕をばかにする奴だっていなくなっていたから、普通に過ごすしかなかったのだ。何の理由もなしに悪ぶっている奴はバカだ。僕はそんな奴らが嫌いだった。
 気の変わらないうちに行こうと思うが、今日はバイトがあって行けそうもなかった。明日行こうと思い、女に電話をかけた。

 僕は病院へと歩いている。中学生の頃から付き合っているあの女とともに、門をくぐり建物の中に入って行く。
サチコは緑のタンクトップの上に、黒のGジャンをはおり、濃い青のショートパンツをはいている。私服では、決してスカートをはかない女だった。
 僕はこいつの口唇が好きだ。少し小さめで下唇に厚みがある。それが全体をいやらしく見せているが、独特の雰囲気が見事に打ち消していた。妙な魅力をもつ女だった。どこにでもいるバカ笑いをするような女とも違う。背はそんなに高くない。どちらかと言えば悪ガキのようなかわいらしさだった。スカートよりもズボンのほうがよく似合う。
「前から聞きたかったんだけど、あんたの父さんって、どうして入院してるの?」
「あれ? 言ってなかった?」
「うん、怒るから」
「・・・…癌だよ、もうもたないらしい。親父にしてみれば、これで良かったんじゃないかな、死にたいって言ってたから」
「それは違うと思うけど」
何より素直だった。
 廊下を歩き、第二病棟の三階を目指す。
 ね、『grace veil』のアルバム聴いたことある? 結構よかったよ、今度貸そうか? 一度聴いてみてよ、気に入ると思うから、日本のバンドも聴いてみたら、結構いいから。そう、この前行ったライブがおもしろかったのよ、初めは何でもなかったんだけど、途中でギターの弦が切れて、それ黒のテレキャスだったんだけど、サブの白のテレキャスにかえて弾こうとしたら、続けざまにまた切れて、二本まとめて、それだけしか用意していなかったし、コード進行の曲じゃなかったから弦を張り替えてる間ずっとボーカルのMC、太鼓のソロなんかも急にあってもう混乱しまくり、 サチコはいつでも嬉しそうにしゃべる。人の不幸でさえも、何気なく笑い話にしてしまうのではないだろうか。
 辺りには松葉杖の子供や、別に何ともなさそうであるが寝間着を着ている男が、看護婦について歩いている。僕が通っていると、誰もが見ているようだった。サチコを連れているといつもこうである。特別目立つと言う訳ではないが、これほど病院に不釣合いな女を他に見たことがない。
 階段を二度上り、廊下に出た。途中でモップをもった掃除婦のおばさんとすれ違う。やはり、ちらりと見て不思議そうな顔をした。いつものことだが、サチコがそれに気付いている様子はない。
 何か騒がしいわね、 サチコが不思議そうに辺りを見回す。
 僕は気にもかけずに歩き続けた。騒がしいのは父の病室のほうである。サチコが指を差している、あそこよあそこ、あそこが騒がしいのよ。
僕は少し速足になった。
 ちょっと待ってよ、 遅れ気味になったサチコが呻くように言った。
 『天羽昌芳』と明記された慌ただしい病室を覗くと、医者二名、看護婦四名がのたうちまわる男を押さえ、注射をうっていた。
 早く押さえて、君、体をしっかり押さえつけて、 若い方の医者が低く呻いた。
 父の顔から苦痛の色が消えていく。僕は医者を小声で呼び、父の事を聞いた。医者がサチコをちらりと見る。サチコは父のほうを見ていた。
「もうそろそろ覚悟しておいてください。この頃発作が多くなってきています。今日はもう3度目です。鎮痛剤の効き目も弱くなっていますから、あと一ヶ月もつかどうか、わかりません。でもよくもってますよ。予想じゃあ、五ヶ月もつかどうかってところだったのに」
 看護婦一人を残し、医者は戻っていった。僕は病室に入り、看護婦に挨拶をし、ベッドの横に立つ。鎮痛剤が効いているのか、父は静かに眠っている。髪はぼさぼさに伸びていたが、髭はきれいに剃られていた。しばらく見ない間に白髪が増えているようだった。サチコは僕の右後ろにいる。
 僕はしばらく、やつれて輪郭が変わってしまった父の顔を見ていた。眼が落ち窪んでいる。サチコも見ているようだった。
 どうしたの? 話さないの? 何故か父を起こす気にはなれなかった。
「何か話されることがあったら、もう少しお待ちになられないと、今、お薬が効いているようですから」
 別に話したい訳ではない。サチコが腕時計を見ている。二時をまわっていた。
「あの、紙と、ペンみたいなものを貸していただけませんか」
 看護婦がベッドの横にある棚から、ボールペンと便箋を取り出し、どうぞ、と言って僕に手渡した。

 『     父へ
 伝えたいことがあり、久しぶりにここへ来ました。今年の四月から、僕は大学に行くことになりました。学費のほうは、一年分は伯母に借りましたが、後はアルバイトをして稼いだ金で払うことにしています。心配しないでください。
 それと、大学を卒業し、一社会人として給料をもらえるようになったら、今井祥子という女性と結婚しようと思っています。今も横にいるのですが、一目でもお見せできないのが残念です。気立てのよい女性で、中学のときから付き合っています。
 最後に、まだあなたを許した訳ではないことを書いておきます。母の件に腹を立てている訳ではありません。
 スペースがなくなってきたので、そろそろ終わりにしたいと思います。できれば明日また来ようと思っています。
   息子 均より      』

 僕は紙に伝えたかった全てのことを書き、看護婦に渡した。いつもながらに汚い字だった。一度テキストを送ってもらい、練習しようかと思ったほどだ。サチコにそれを話して笑われたのでやめたのだった。
「父が起きたときに渡してくださいませんか。僕達はもう、帰りますので」
 僕は来たときと同じ所を通り病院を出た。松葉杖の子供はいなかった。階段を一階まで下りたところで、先程すれ違った掃除婦のおばさんを見た。やはり不思議そうな顔をしていた。
 ねえ、本当にお父さまのこと嫌いなの? そうは見えなかったけど、 サチコが横を歩いている。どこに行くの? これから、バイトあるの? あるならわたし帰るけど、 僕は何も考えずに歩いていた。何かどこかに引っ掛かっているような気がするが、よく分からない。黒い雲が空を覆っている。
「雨が、降りそうだな」
「ええ、一雨きそう。ねえ、バイトに行くの?」
「うん、今日ライブがあるから、その受付のね。ちょっと人気のあるバンドが出るから、結構、客多いだろうな」
 僕は一度家に帰り、それから行くことにした。サチコは直接バイトに行った。

 どうして人間は群れたがるのだろうか、 僕はそんなことを考えていた。受付をしていると、皆五・六人のグループを作っているのに気付く。一人で来る奴なんてほとんどいない。何故だろうか? 思うが答えはいつも決まっていた。身を守るためだ。他人の反応を見て、自分の態度を決める。そうすれば不安を感じなくていい。そのために群れるのだ。このバイトをすると、分かっているのにいつもこれを考えてしまっていた。また四人の女の子達が受付を済ませ、中に入って行く。
 それにしても、皆狂っているとしか思えない。どうしてこんな演奏でのれるのだろうかと思う。音がバラバラだ。リズムもおかしい。自分のやっているパートしか聴いていない証拠である。こんな音を金を出して聴くのだから、皆リッチなのだろう。人気の秘密もよく分からなかった。
 ボーカルが奇声を発した。何の意味があるのだろうか。一度それを聞いてみたことがあるが、よく理解できなかった。客を煽っているだけだよ、この馬鹿騒ぎが楽しいんだ、お前には分からないだろうな、 本当に分からなかった。歌を聴きにきたのか、騒ぎにきたのか、それとも両方か。しかし、歌という代物ではないし、騒ぐと言っても皆同じ動きをしているだけだ、理解できなかった。
 これより前のバンドはもっとひどかった。本当に歌なんてものじゃない。音程は外すし、第一ただ怒鳴っているだけだった。頼むから歌ってくれ、と言いたくなる。漏れてくる音でそれなのだから、中はもっとすごいのだろう。僕は受付でよかったと思うが、客は違うらしい。よかったね、今日のライブ、うん、楽しかったね、もう汗かいちゃった、 いつもそんなことを言いながら帰る。
 二時間が過ぎ、ライブは終わった。
 その夜は、結局家には帰らなかった。出演していた友達のバンドの打ち上げに付き合わされ、そいつの家に泊まってしまった。僕はそんなに飲まなかったのだが、ヨシヤの奴が立てなくなるほど飲み、その介抱をやらされたのだ。奴の彼女も来ていたが、十二時をまわると帰っていった。
 後は頼むわね、ヒトシ君、そのひと誰にでもからむから気をつけてね、じゃあねえ、バイバイ。
 その後、三十分くらいして目を覚ましたヨシヤに僕は本当にからまれていた。バイ・セクシャルなのではないだろうか。細かい状況を素面のときに教えてやろうと思う。

 十一時頃に目を覚まし、僕は大学をあきらめ見舞いに行くことに決めた。少し早いかとも思ったが、いつ起きているか分からない父に会うには、それくらいがちょうどいいと思った。
 この時間は家には誰もいないので、このままサチコを誘って行くことにした。サチコは大学にもいってなければ、定職をもっているわけでもない。所謂フリーターである。この時間には、まだ家で寝ているか、ごろごろしている。
 僕は電話をかけ、病院の前で待ち合わせることにした。
「何で病院の前なの? 中で待てばいいのに、暑いじゃない外じゃ、待合室でもいいし、あっ、待合室で待ち合わせだって、きゃはは、もういいや、もう寝てしまえ、ぐうぐう、ああきついよお、本当に寝ちゃおうかな、ヒトシ迎えにきてくれえ」
「何勝手に混乱してるんだ、おまえは。疲れてるならいいけど」
「いくけどさ、本当に外?」
「うん、外。とにかく病院の前ね、そっちのほうが見つけやすいから、すぐこいよ、じゃあ」
 バスに乗ること十五分、病院近くの停留所に着いた。そこからは歩いて二分もかからない。サチコは既にきていた。
 遅いぞヒトシ、すぐこいと言っておきながら、怠慢だ、あ、昨日と同じ服、 手には花を持っている。
 やっぱりお見舞いに行くんだから、手ぶらじゃ恥ずかしいじゃない、 サチコは歩きながら僕に言った。今日は『dictateur』という刺繍のしてある赤い帽子をかぶり、長い髪を隠していた。
 昨日のバイトがきつかったのよ、二人でいつもしてるんだけど、もう一人のこが来てなくて、あれ? あそこにいるの、あんたのところのおばさんじゃない? 病院に入ってすぐの所で、電話をかけている伯母を見つけた。ひどく慌てているみたいで、子供のように落ち着きがない。僕は近づいていった。
「伯母さんも親父の見舞いにきてたの、親父起きてた?」
 伯母は少し驚き、焦りを見せるかのように受話器を持ったままだった。
「あ、ヒトシ、どこに行ってたの、昨日から、家にもいないし。そんなことより、お父さんが亡くなったわ、詳しいことは後で言うから、早く霊安室に行きなさい」
 僕は走っていた。あんな親父が死んだだけだと言うのに、真っ直ぐに向かっていた。
 サチコが伯母に軽く頭を下げ、僕の後を走っている。花は手に持ったままだ。
 霊安室についた。中に入り、親戚がたむろしている横を歩き、父の右横に立った。サチコが追いつき、親戚連中にお辞儀をして、僕の横にきた。
 何だあの娘は? ヒトシの彼女じゃないですか、あいつももうそんな歳か、兄さん古いですよ、今の子達は高校に入った頃からいますよ、そうか、子供にだけは注意しないとな、俺の時代はひどかったぞ。
 連中の会話に苛立ちを覚えながら、父の顔を見ていた。昨日まで色のあった皮膚が、抜けるように青白くなっていた。サチコが心配そうに僕を見ている。顔に触れてみる。まるで熱を感じなかった。筋肉も硬直している。閉じている目が、少し動いたように見えた。髭が少しういている。線香の匂いが鼻をつく。気分が悪くなりそうだった。
 サチコが僕の腕を引っ張り、外に出るよう合図した。帽子をぬぎ左手にもっている。ヘアピンでまとめた髪が少し落ちていた。
 入ってきた伯母とすれ違いで外に出る。そこには昨日の看護婦が静かに立っていた。
 お父様からです、 一通の手紙を看護婦から受け取った。

 『   均へ
 大学入学おめでとう。お金のことで少し心配だ。おまえのことだから、伯母さんの申し出も断ったんだろう。途中でやめたりせずに、卒業してほしい。父さんにもできたんだ、おまえにできないはずはない。
 祥子さんに、一度会ってみたいな。どんな女性を選んだのか、心配はしていないが、母さんの様な人だったら言うことない。
父さんには言う権利もないのかもしれないが、こんなふうにはなるなよ。父さんの人生は後悔のしどおしだった。父さん、弱すぎたんだな。この世の中を生きていくには、弱すぎたんだ。あのことがあってから、ずっと死ぬことばかり考えていた。でも、怖くてできなかった。死ぬこともできなかったんだ。死のうと思う度に、おまえの顔がちらついて、やめろ、って言うんだ。おまえになんて言って謝ろうか、会ったときになんて言おうか、それだけを考えて、刑期を終えたんだ。癌宣告を受けたときもうれしかったんだよ。
 おまえに何の償いもできないまま、死んでしまうのは心残りだが、今日きてくれたと聞いて、とてもうれしかったよ。
 おまえがどんなに父さんを恨んでいるか、想像もできないが、そのほうが父さんには都合がいい。人を悲しませるなんてもうたくさんだ。父さんは、もうおまえに会えないだろう。そんな気がする。
 均、強くなれ。どんな悲しみにも耐えれるくらい強くなれ。だが、感覚が麻痺した人間にはなるな。世の中に多い、そんな人間には。
 最後に知らせておきたいことがある。均、おまえは私たちの本当の子ではないんだ。父さんには生殖機能がなかったんだよ。だから、捨て子だったおまえを施設から引き取ったんだ。でも、均という名前は私たちがつけたんだよ。おまえを引き取ってすぐにな。おまえには弱い私の血は流れていない。おまえの中に流れている血が、強い血であることを祈っているよ。強くなれ。
     私たちの息子へ 父より   』

 サチコの眼が潤んでいる。僕は分からない。でも、サチコは泣いていた。
 あなた方が帰られて一時間くらい後に、目を覚まされました、手紙をお渡しすると、動くのさえ辛そうに、実際、ひどく苦しかったと思います、で、手紙を開かれて、目がよく見えないから読んでくれ、と申されましたので、お読みしました、泣いていらっしゃるようでした。読み終わって少しして、紙とペンをくれないかと申されました、私がお書きしてもよかったのですが、これだけは自分で書かなければならないと、おっしゃられて、うつぶせになられ、一語一語を、震える手で、一所懸命、お書きになられました。書き終わられたとき、ご自分の寿命のことを、尋ねられて、私が言いあぐねていますと、もう駄目なのは分かっていると、そうおっしゃられて、今度あなたに会ったときに、すまなかった、と言っておいてくれと、そして、最後に思い出されたように、さよなら、を言ってくれと。それから、五時間後に、最後の発作が起こって、お亡くなりになりました、最後まで、私に、さよなら、を伝えてくれと申されて、もう一度、息子に会いたかった、と。
 サチコが泣いている。看護婦も涙ぐんでいるようだった。僕は手紙を右手にもったまま、再び霊安室に入った。視界がぼやけている。サチコは僕の横にきていた。伯母が近寄ってきたのを、僕は拒否した。父の顔が歪んで見える。そこに跪いた僕の口を割って出てきたのは、ごまかし続けていた真実だった。
 恨んでなんかいない、僕を独りにしないでくれよ。父さんは勝手だ、自分の都合だけで僕から大切なものをいくつも奪った、人殺しの子供でもよかったんだ、別に苦じゃなかったんだ、独りが嫌なんだ。僕は強くなんてなれない。今になって、僕は父さんを恨むよ。どうして、 僕は涙を零していた。もっていた手紙が皺くちゃになっている。
 伯母が驚いていた。
 親戚連中は僕のほうを見て何か話している、おいどうしたんだヒトシは? 兄さん一応父親が死んだんですから、あんな奴でもか、ヒトシ君に聞こえますよ。
 看護婦が入ってきて、僕の三歩後ろに立った。たった一度しか見たことのない父のためにサチコは泣いていた。帽子を両手でもち、握り締めている。涙を隠そうとはしていない。サチコは僕の横に跪いた。
 どうして僕には言わせてくれないんだ、どうしていつもそんなに勝手なんだ、僕に会いたかったんなら、もう一日頑張ればよかったんだ、さよならくらい、言わせてくれたっていいだろ。勝手なことを言うなよ、僕はあんたの息子なんだ、強くなんてなれないんだ、どんなにあがいても、僕はあんたの、人殺しの子供なんだよ。
 僕は立ち上がり、霊安室を急いで出た。伯母が僕を呼んでいるのが聞こえたが、速足で歩き、近くの公園に行った。太陽と視線が眩しかった。サチコはついてきていた。僕は揺れているぶらんこに座った。
 ポケットからハンカチを取り出し、僕の目を拭いてくれた。サチコの目は赤くはれている。帽子を目深にかぶり、太陽と人の視線を遮って下を向く。
 沈黙が続いた。互いに話すことができなかった。子供達がサッカーをして遊んでいる。まだ下手くそだ、ボールをキープしきれないでいるし、群がっている。でも、そのほうが面白かったのを思い出した。
 僕は捨て子だったんだな、初めて知った。ひどい話だよ、産まれてすぐに存在を拒否されるんだから、捨てる神あれば拾う神ありか、よく言ったもんだよ、 でも、これでよかったんだろうな、親父に釣りとか、野球とか、サッカーとか教えてもらって、楽しかったし、嬉しかったもん、あんな親父だったから長続きしなかったけど、楽しかったんだ。でも、おふくろは何か違うなって思ってた、それが今ようやく分かったよ、鼓動が違ったんだ、鼓動のリズムが違ったんだよ、安らぎの中にいた頃と、そのあとで、 僕は立ち上がってごみ箱のところへ行き、その中に手紙を丸めて捨てた。
 いいの? そんなことして。
 僕はそのままバイトに行った。サチコはずっとついてきた。

 昨日の後始末をするかのように、少しの親戚と坊さんとで葬式が行われた。
 業者の人が全てを仕切っている。おふくろのときは自分の家で行ったからそうでもなかったが、葬祭場ではやけに威張って見えた。
喪主は僕だった。伯父が色々と教えてくれて、無事に式は終わった。式場の手配や準備なども伯父がやってくれていた。来訪者への挨拶と、坊さんの長いお経が面倒だった。お経の上手い下手は分からないが、元来、眠気を誘うものではないかと思う。
 お棺の中の父は、昨日より幾分笑って見えた。ドライアイスと花に囲まれて、運ばれていった。
人生足別離/「サヨナラ」ダケガ人生ダ
 中国の詩人が残した詩の中にそうあったと思う。僕はその言葉の意味がようやく分かったような気がした。
 火葬場へと向かう車の中で、僕は太陽の光を強く感じていた。もう二十分くらい乗っているだろうか。僕の手の中には、額縁に入れられ笑っている父の写真がある。何時写したものか、僕には分からない。横には喪服姿のサチコが座っている。髪を長く垂らしている。久しぶりにスカートをはいているところを見た。高校の卒業式以来だ。
「ね、今、何考えてる?」
「ん? 何だったかな、あ、そうだ、このまえ読んだ小説おもしろかったなあと」
「どんな内容なの?」
「ん、コインロッカーに捨てられた子供の話で、めちゃくちゃなんだけどね、おもしろかったんだ。捨てられた子供は二人いて、片方は歌手になるんだけど、小さいころに病院で聴いた鼓動の音が聴きたくて狂っていくんだ。もう一人は自分を捨てた母親に会ったとき、殺してしまって、北海道の少年院のようなところに入れられるんだけど、何だったかな、まいいや、ダ何とかっていう薬を探すために脱走するの。鰐を飼うような女の子に手伝ってもらって。すごいなあ、って思ったよ」
「何が?」
「作者が。で、おまえは?」
「そうね、忘れたわ、今の話聞いて。何だったかしら。まあ、その程度のことだったんじゃない。今度その本貸してね」
 昨日のことを思い出していた。親戚の態度、伯母の慌てよう、父からの手紙、サチコの涙、子供達のサッカー、太陽の視線。
 ああ恥ずかしい、 僕は小声で呟いた。
「何が恥ずかしいの? ねえ?」
 僕の顔を覗き込んでいる。
「え、いや、昨日あんなことを言ってしまったかと思うと、もう」
 照れている僕を見てサチコは微笑んだ。
 アスファルトが太陽を照り返す。じわじわと汗が出ていた。はき慣れないスカートが気になるのか、サチコは何度もシートから腰を浮かしている。
 太陽が強いわ、今何度くらいあるのかしら、喪服って黒いから暑いわ、蒸し暑いし、ねえ、今も独りだと思ってる? サチコは眩しそうに手で影を作っている。
「いいや、今も二人だよ」
「違うわ、三人よ」
 もう駄目だ、 太陽の強さの中で、僕は父の願いが何一つ叶えられないことを確信していた。
 いいお父さんになってね、あんたの子供なんだから、 サチコが楽しそうに囁いた。

退

勧君金屈巵 / コノサカヅキヲ受ケテクレ
満酌不須辞 / ドウゾナミナミツガシテオクレ
花発多風雨 / ハナニアラシノタトヘモアルゾ
人生足別離 / 「サヨナラ」ダケガ人生ダ

  『勧酒』 于武陵
           翻訳 井伏鱒二

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