Japanese Literatures Site

さくら | 織総 択

 桜の花が咲くころに、私は思い出すだろう。あの人の記憶を…。

 あの時、私は会社の休みを利用して、病気で入院している母のところに久しぶりに見舞いに行った。私の勤務先が実家とはかなり離れていたので、そう度々見舞えはしなかったのだ。あの時も一ヶ月ぶりくらいで、母も喜んでいるようだった。
 よく晴れた日で、病室の窓からは、開けた町並みと共に、公園に植えてある桜の木がよく見えた。車の通りも少なく、騒音はあまり聞こえてこないが、子供達の遊んでいる声が響いていた。
 私が病室に入ったとき、母はゆっくり振り向き、少し驚いた様子を見せ、何も言わず微笑んだ。私は持ってきていた花束を母に手渡しながら、窓から見える風景を見た。とても静かな日で、特に惹きつけられるものがある訳ではなかったので、私は母に目を戻し、話し始めた。
「病気はよくなりそうなの?」
「さあ、まだ結構かかるかもしれないねぇ。先生は大丈夫だとおっしゃってくれてるんだけど…」
 二人ともそんなに話題をもっているほうではない。いつも、いきなりこのような会話になってしまっていた。
「仕事はうまくいってるのかい?」
 母は心配そうに私を見ていた。一度、倒産しかかったことがあるのだ。
「ああ、ぼちぼちね。一度軌道に乗れば、どうにかなる仕事だから」
「無理はしなさんな。病気にでもなったら、元も子も無いからね」
「分かってるよ」
 私はぶっきらぼうに応えた。心配してくれているのだろうが、少々面倒臭く感じた。親に自分の近況を話せるほど、私は器用ではなかった。
 母は視線を私から外へと移し、公園の方を見ていた。そんなに目の悪い人ではなかったのだが、近頃視力が落ちてきたらしく、目を細めたりしていた。
「桜はもう咲いているかねぇ」
 それほど桜を好きな人ではなかったと記憶していたが、どうしてだろうか、物寂しげにつぶやいた。
「咲いてんじゃないかな」
 私は応えた。実を言うと、私もそんなに目の良い方ではない。公園の桜を見ようと思うのだが、少し淡紅色がかっているのが見えるだけで、はっきりとした応えが出せるほど見えはしなかった。病院にくる途中に見ていればよかったのだが、私自身、あまり桜というものに興味がなく、桜の木の横を通ったとしても、見はしなかっただろう。
 その日、私は母に元気を出すように言って、病院を去った。
 自分のアパートに帰る前に実家により、親父と話をしたところ、母の容態はそんなに悪くないとのことだった。

 そして、何の音沙汰もなく、一ヶ月が過ぎていった。
 そのころ私は、会社が軌道に乗り、残業で帰りが遅くなるという日々が続いていた。
 その日も、夜が更けたころに帰ってきた。
 私は、家に帰って早々に、缶ビールを手に取った。プルタブを起こし、中の液体を喉に流し込みながら、留守番電話の再生ボタンを押した。件数を伝え、声が聞こえ出す。最初に入っていたのは、高校時代の悪友からであった。また今度電話する、と緊張した声で告げると切れた。二つ目は、休暇を取った会社の同僚からだった。お土産を楽しみに待て、というものだ。
 問題はその次だった。親父の声で、母の危篤を知らせていた。すぐに病院に駆けつけろと言って、それは終わった。
 私は留守番電話の再生を止め、受話器を取ると、実家の電話番号を押した。十二回ほどコールするのを待ったが、誰も出なかった。これは、母の容態が変わっていないことを意味していた。
 テーブルの上にビールを置き、自動車のキーを手にとって、私はアパートを後にした。

 私のアパートから実家まで、自動車をとばしても、ゆうに三時間はかかる。それほど遠いのだ。病院に着いたときには、既に午前二時をまわっていた。
 中に入ると、私は一目散に母の病室に向かった。何か悪い予感がしてならなかった。頭の中でサイレンが鳴り響き、逃げ場のない気持ちが漂っていた。何かが狂いだそうとしている、そんな感じだった。
 母の病室まできた私は、勢いよくドアを開けた。しかし、母が寝ているはずのベッドの上には、小奇麗に折り畳まれた布団があるだけで、他には何もなかった。
 部屋を間違えたのかと思い、ドアに付いている番号を確かめたが、間違えてはいなかった。そこで私は、一つのことに気が付いた。名前札がなかったのである。そこにあったはずの母の名前が、何事もなかったかのように消えていた。
 混乱する感情を抑えてドアを閉めると、ナースステーションへと走った。
 どうしても信用できないものが、頭の中で蠢いていた。胸の奥の所で、表現できないような痛みが走り、淡い希望のような不安が、私の心を押しつぶそうとしていた。
 ナースステーションに着くと、夜勤で残っていた看護婦に母のことを尋ねた。看護婦は少し面倒臭げに立ち上がり、私に再度、母の名前を確認した。
 私は、巨大なものになっていく不安と絶望感をごまかしながら、看護婦を見据え、母の名前を言った。
 焦りの色が見えている私から一瞬目をそらし、看護婦は、かなり気まずそうにしながら、私が最も聞きたくなかった事実を告げた。
「その方でしたら、昨日の二十一時二十八分にお亡くなりになっています。霊安室の方に行かれば。霊安室は、一階に下りていただき受付前の廊下をずっと奥に行って頂いて、突き当りを右に曲がられたらすぐですので」
 看護婦は一礼すると、机に戻り、ハンカチで鼻をおさえた。
 私は、この看護婦がなにを言っているのか、理解できなかった。いや、しようとしていなかったと言った方が適切かも知れない。
 頭の中のサイレンは最高潮まで達していた。それは、私の思考を妨げ、目の前に母の顔を映し出していた。
 私は歩き出した。とにかく速足で、走ろうとはしなかった。出来るだけ心を落ち着かせようとする、本能的な行動だったのだろうと思う。
 階段を下り、受付の前を通り過ぎ、真っ直ぐ奥へと歩いていく。どんなに遠くに感じたことだろう。いつまで歩いても突き当たることはないのではないかと思えるくらい、廊下は長く感じられた。
 廊下が突き当たり、私は右を向いた。そこには、並べられているソファーに座って、こちらを向いている親父がいた。どうやら、私を待っていてくれたらしい。
「おふくろは…」
 親父は一度下を向き、組んでいる手を見ながら、つぶやくように言った。
「…日が落ちるころくらいから、容態が急変してなぁ。何が悪かったのか、意識は戻らずじまいだ。…さあ、母さんに、会ってやってくれ」
 立ち尽くしていた私に、親父は声をかけて、霊安室の扉を開けてくれた。落ち着きはしているが、一番狂いたいのは親父だろう。三十二年間愛し続けていたのだから。
 私は、歩いて部屋の中に入った。中には、母が寝かされているベッドと、供えられている線香の他には何もない。
 母の顔にかぶせられている布をとり、親父と一緒に、眠っているような母の顔を見つめた。それは、とても安らかで、今にも起きて話し掛けてきそうな、そんな感覚を与えた。私は、またもや立ち尽くした。何も考えることが出来ず、虚しさと、脱力感の中で、茫然としていた。頭の中で、もやを巻いていたものは、次第にはっきりとした形を成していき、それとともに、全てを拒否しようとする働きが、脳の中で生まれていた。
 涙が頬を伝い、顎の線へと消えていった。全てを拒否しようとする働きは。私をも否定しようとしていた。言い訳と嘘。そんなものが、頭を支配している。そのような自分に吐き気をもよおしながらも、自問自答は続いた。後悔と自責が自分を救ってくれそうで、何かがきれていくのを感じながら、母のことを考えていた。

 その時から、私の心を責め立てているものがある。
 私のとって、あの時の母の言葉が最後になったわけであるが、どうして、もう少しまともに応えなかったのだろう。私が女の子だったなら、もっと優しく応えられたのかも知れない。
 『奇麗に咲いているよ』
 くらい、言えたのかも知れない。
 今更悩んでも遅いのは承知している。しかし、それ以外に私に出来ることがあるだろうか。それすらも、遅いのである。
 私は母に何もしてあげられなかった。いつだってかばわれるだけで、受け取るだけで、罪悪感を感じながらも、変に突っ張って、結局、傷つくのは母だけだった。私はただ、ぬくもりの中だけで生きてきたのだ。いつかは返すと思ってはいたが、それでも、時を徒に過ごすだけだった。人は、いつかは死ぬとは分かっていながら、心のどこかで、母だけは永遠だと思っていた。産まれる前から近くにいたから、いつだって、近くにいてくれたから。
 もう一度、会うことが出来るのなら、そっと笑いかけて、安心させてあげたい。別れのしるしとして、涙することがあっても、そっと微笑めば、悲しみは消えるだろうから。それでつらさが増したとしても、その分だけ、深く心に刻んでおこう。忘れたくはないから。せめてもの罪滅ぼしとして。
 私に最も近い人だったから。
 桜とともに、散った人だから。

関連記事

コメントは利用できません。