虚栄 | 天羽 均
僕の手にあるこのナイフは、何が切れるのだろう。
手首の皮膚一枚切れないのだ。刃の部分を手首にあてがうところまではできるのだが、どうしても引くことができない。
このナイフには、人を躊躇させる力があるのではないだろうか。
嘘のような話であるが、僕はそれを体験している。何かに体を呪縛されているような感じで、言うことを聞かない。どうしたらいいのか分からなくなり、手首から離したが、原因が分からない。
このナイフは、僕をこのまま生かせようとしている。
僕はもう逝ってしまいたいのに、このナイフは、生かせようと一生懸命なのだ。
『お前なんかに、何が分かる!』
そう思ってみても、このナイフは聞いてもくれない。僕の気持ちなんか無視して、この世に引き留めておこうとする。
何が望みなんだ。ああ、どうして逝かせてくれない。
僕のほうはもう準備ができているのに。不幸なのは僕、いつだって僕なんだ。
このナイフを、深々と胸に埋めた感触を、僕は忘れはしない。
生暖かいものが僕の手にかかり、嫌な臭いを発していた。
倒れまいとして僕にしがみつくあいつを、蹴飛ばしたときの開放感と充実感。僕を睨みつけるあいつの目は、何かぞくぞくさせるものがあり、僕に快感を与えてくれた。
そして、周囲の目は、恐怖の目は、僕をいかせてくれた。
今までとは、僕を見る目が違っていて、僕を恐れているのが分かり、溢れてくる歓喜に似た感情に、打ち震えていた。
しかし、快楽は永く続かない。現実が戻ってくると、手に残っている感覚を意識し、僕は吐き気に震えた。
嫌悪感が膨らんでいき、脳が破裂しそうだった。妙に冷静になっていく自分が、汚いものに思えて、我慢できなかった。
現実から逃げていく自分を、どこかで見ている自分がいて、そいつが僕のことを蔑んでいるのが分かり、どうしたらいいのか分からなかった。二人の自分が、互いを打ち消そうともせず、共存し、僕を迷わせていた。現実と理想とが交錯して、つまらない現実が夢のような理想へと変わっていった。
おかしくなっていく精神が一つの解決策を思いつき、そして僕は、ナイフを手首にあてがったのだ。
このナイフは何が切れたのだろう。
『思い出せない。僕は何をしているのだろう。このナイフはなんだ。この恐怖はなんだ』
何を考えているのだ。決まっているじゃないか。これで手首を切るのだ。そして。逝ってしまうのだ。そうすれば、全てが終わる、この苦しみから解放される。
『苦しみとは何なのだ。何処にそんなものがあるというのだ。心の中には、自尊心に酔いしれているお前がいるだけだ。醜い奴め』
そんなことはない。僕は、自分の罪を償いたいだけだ。この罪が洗い流せるなら、何だってするさ。
『罪だと。そんなもの微塵も感じていないくせに。お前は唯、自分から逃げたいだけなのだ。しかし、それもできずに、言い訳がましくそんなことを言って、ごまかしているのだ。手首を切れないのは、その為だ』
違う。このナイフが、僕に手首を切らせようとしないのだ。まるで、僕に罪がないかのように。僕は、このまま逝ってしまいたいのに。
『まだ言っているのか。卑怯者め。ナイフが切らせないのではない。お前に切るだけの勇気がないのだ』
では、もう一度試してみようではないか。手首にあてがって、引けばいいのだな。
何だこの嫌な気分は、まだ切ってもいないのに。何だこの冷や汗は、もしかして怖いのか。何だこの感情は、怖くて仕方がないではないか。
『どうだ。それがお前の本心だ。怖いだろう。醜いだろう。その、恐怖に打ち震えている小さな心が、お前の本当の姿だ。
これからお前は、その恐怖を引きずって生きていくのだ。お前のような奴が、何処まで耐えられるか、見ものだな』
僕は、これからどうしたらいいのだ。誰か、教えてくれ。だれか…………。
あのナイフは何が切れたのだろう。
僕の手首は切れなかったが、あいつの胸は切り裂けた。不可解なことだな。
僕にはもう試せないが、誰かがここに持ってきてくれれば話は別だ。でも、この何もない個室の中には、誰も持ってきてはくれない。
足音が聞こえる。もしかして、持ってきたのか。やめろ。来るな。来ないでくれ。
まだ、逝きたくない。生暖かいものなんて、感じたくない。
僕はこれからどうしたらいいのだ。誰か、教えてくれ。
僕は、怖くて仕方がないのだ。